text : PAPUWA the parallelos

[ 南行き ]


 眼下にどこまでも広がる青い海。見上げればどこまでも続く蒼い空。どれだけ時が経ってもその景色の色だけは変わらない。それを眺める自分も変わらない。自分を取り巻く環境は刻一刻と変化しているというのに。
 切ないようなもどかしいような気分になるのは、決してここ数年どころのことではない。しかし、最近になってそうなることが多くなってきたのは確かだった。ひとり、またひとりと、知る者が手の届かない場所へ旅立っていくにつれてこんな気分になることは多くなっていく。
「あっ シンタローさん!来てたんだ!」
 呼ばれた声に、シンタローは振り返る。金髪碧眼の、少年と青年の年の狭間の男が手を振ってこちらにやってくるところだった。
「一応ここは療養施設内なんだぞ。もう少し静かにしたらどうだ」
 嘆息と一緒に言って、しかしシンタローは軽く微笑んだ。窘められても、その笑顔では意味がないよと言わんばかりに少年も微笑んだ。
「どうせおじいちゃんのためだけの療養施設なんだし。他に誰もいないからいーじゃん」
 太陽のように笑う様は、遠い昔の件の人物を彷彿とさせる。過去によくそうしていたように、シンタローは彼の髪をぐしゃぐしゃっと掻き混ぜた。
「そんなにはしゃいでちゃダメだろう。オマエももう大人なんだから、時と場所をわきまえろ」
 やめてよ 嬉しそうな言葉とは反対に、しかし名残惜しそうに少年は身体を捩ってシンタローから離れた。
「シンタローさん、矛盾してるよー。オトナ扱いするんだったら、こんなふうに子ども扱いなんか」
「そうか?まぁ、オマエがどんなに大きくなっても、俺とオマエの年の差は変わらないからな。いつまでたっても子どもみたいなもんだ」
「なんだよ、それー。俺、結構嬉しかったりするんだよ。俺のこと、真剣にオトナ扱いしてくれるのってシンタローさんだけだから」
「青の一族として、秘石眼の力を使いこなすことができれば大人として認められてもいいだろう。しかもオマエの場合、両眼だからな。よくぞそこまで使いこなすようになったな」
 今度はさらに勢いよく髪を掻き混ぜてやる。自分は持たない金の髪。憧れていたのは、もうとうの昔だ。いや、それも今は変わらないかもしれない。求めてやまない、という点では。失われて、もう二度と手の届かない金の髪もあれば、もう間もなくそうなってしまう金の髪もある。こうやってかこつけて掻き回していたいのは、その欲望の表れでもあった。
 昔はもっと下の方にあった金の髪も、今ではシンタローの顔のすぐそこにある。2、3年ほど前に急に今の位置にまで近づいてきたんだったな とシンタローは懐かしむように思う。こうやって成長していく様を見て感慨に耽るという時点で、自分はまだこの少年を子ども扱いしているのだろうな そんなシンタローの胸中など知らないように、少年は胸を張った。
「俺が秘石眼の使い方をマスターできたのはシンタローさんのおかげだよ。シンタローさんは世界一の師匠だよ。俺の誇り!」
「おいおい、煽てて誤魔化そうったってそうはいかないぞ。まだまだマスターしたと言うには程遠いんだからな。自惚れるなよ」
「ちぇー。でも、それでこそ師匠!またトレーニングに付き合ってよ」
「まったく。俺を師匠と慕うなら、もちっと言葉の遣い方があるだろう。これだから最近のガキは」
「あー!またガキ扱いしてる!!俺、もうオトナなんじゃないのかよ」
「前言撤回、だな」
 年に似合わずぷくーっと頬を膨らませる少年の頭を、シンタローはこつんと小突いてみせる。大仰に痛がって見せる少年に苦笑しつつ、シンタローは目で少年にソファを勧めた。
 療養施設と名の付いているこの場所だが、利用できる人は限られていた。もともとこの少年の一族の所有する施設で、都会からずっと離れた海辺の崖っぷちに建てられている。今も恐ろしい勢いで流動している世界とは隔絶されているよう。その世界で身体と命をすり減らし、ボロボロになった一族の人間が、身体を癒すためにこの施設を利用していた。いくら一族の人間でも普通の病院等で事足りる者はここを利用したりせず、本当に療養を目的としてここを使用した人物は過去に数えるほどしかいない。世間と離れなければ自分は治らないだろう――そう自身が判断した者だけここを利用していた。
 療養する人物が青の一族の人間しかいないのだから、そこを訪ねる人間も限られているわけで。そして、このような辺境にこの施設はあるということで、訪問者は一日で帰ったりすることはほとんどない。来客用に宿泊設備はきちんと整っていて、下手な一戸建て住宅よりも立派なキッチンが備え付けられている。シンタローは慣れた手つきで棚から茶葉を出し、牛乳で紅茶を煮出す。砂糖を適量加えたそれを、リビングスペースでくつろぐ少年に差し出した。
「ガキはガキらしく、オトナに可愛がられてろ。ほら」
 子ども扱いに憤っていても、少年は嬉しそうにカップを受け取った。やっぱりガキじゃねーか シンタローのそんなからかう声も、にこにことカップを包み込む少年の前には何の意味もなさなかったようだ。
 本質は変わらなくとも、やはり時の流れはここでも感じられる。同じ人物の笑顔でも、時と共にそれは急速に変化している。今のシンタローにとって、もっともそれを感じさせるのがこの少年の笑顔だった。いつの間にか大人びた笑顔を見せるようになったこの少年。少し前までは、本当に無邪気な笑顔しか見せなかったというのに。最近では、内の複雑な葛藤を隠すような、そんな笑顔を見せるようになっていた。思春期だからそれも仕方ないのだろう、シンタローはそう思うのだけれど、この少年にももう思春期と呼ぶ時が訪れているということに、己の内と外での時の流れの摩擦を感じてはっとなる。
「俺、シンタローさんのミルクティーって大好きなんだよなー。いや、シンタローさんの作るものなら何でも好きなんだけど」
 膝を抱え込むようにしてソファに座り、少しでも長く堪能していたいと言わんばかりにちびちびとミルクティーを口に運ぶ。そうして、決まって少年は上目遣いにこちらを見てくるのだ。シンタローは海よりも深い溜息をついた。
「ったく。俺に夕飯作らせたいなら、素直にそう言やいいんだよ。その代わり、母上には今夜ここに泊まるってコト、きちんと自分で連絡しておくんだぞ」
 どうせ今日は帰るつもりだったんだろ 言うと、少年は元気よく、はーい! と返事した。
「俺、煮込みうどんがいい!シンタローさん特製の」
「しょーがねーなー」
 桜の季節が近づいてきたとはいえ、それでも時折冬に逆戻りする日がある。今日はちょうどその日にあたっているようで、温かくやわらかな陽射しの合間に吹きすさぶ風は、冬の名残を人々にもたらしていた。温かいミルクティーにすっと手が伸びる時点で、未だ春には一歩届かないのだと思い知らされる。
 口に広がるミルクティーの味。シンプルなものだからこそ難しいものだが、永く生きてきたことによって辿りつくことのできた味だった。シンタロー自身満足している究極のブレンドだと思う。おかげで少年を初めとする彼の縁者は、誰もがこの味に舌鼓をうっていた。
「ねぇ、シンタローさん」
 それまで幸せそうにミルクティーを飲んでいた少年が、いつになく真剣な表情でシンタローを見ていた。
「シンタローさんはおじいちゃんのプライベートの補佐官をやってたんだよね。それも結構な間」
「ん……まぁな」
「てことは、俺なんかよりもずっとおじいちゃんのこと、知ってるよね」
「オマエより、ってのはあやしいと思うぞ。なんたってオマエは孫なんだからな」
「俺が訊きたいのは昔のことなんだ。――ねぇ。シンタローさんは、おじいちゃんのお兄さんってどんな人だか知ってる?」
 背筋が粟立った気がした。この少年に、このような形でその人物について訊ねられるとは思いもしなかった。いつか話さなければならないと思っていたが――しかし、今はまだその時期ではない。少年の話し振りでは、まだシンタローとその人物がどのような関係にあるのかは気付いていないようだ。それならば、まだ――。
 双つの青い瞳がシンタローを見つめてくる。どこまでも真っ直ぐな。この瞳を前に、どこまで平静を保てるだろうか――動揺を悟られないよう、シンタローは慎重にカップをテーブルに置いた。
「知らないわけではないけどな。その人がどうかしたか?」
 少年もまた、カップをテーブルに置いた。きちんと座りなおし、膝の上で組んだ手に視線を落としていた。そして神妙な顔つきで、上目遣いに訊ねてきた。
「じゃあ、今どこにいるか知らない?ちょっと……伝えたいことがあるんだ」
「伝えたい、こと?」
「うん。……俺、さっきおじいちゃんトコに行ってきたんだ。でも、おじいちゃんは寝てて――」
「あの人も生涯現役とか言ってるけど、やっぱ年には勝てないみたいだからな」
 少年の祖父は、自分で自分に療養が必要と判断しても、それでもまだ世界の行方は気になるようで。いくらシンタローが言っても聞かず、ベッドに膨大な書類を持ち込む。といっても、自ら裁可を下すのではなく、かつての部下達がどのような仕事振りを見せているのかチェックしているという程度だ。だから、シンタローもそれほど咎めはしなかったのだが。
「部屋に他に誰もいなかったから、とりあえず花だけ替えてきて――それでおじいちゃんの部屋に戻った。そうしたら、おじいちゃんが寝言を言ってたんだ。兄さん――って」
 ――もう俺たちは十分兄さんに守ってもらった
   だから、兄さんだけでもあの島を探しに……
   自分に素直になって、アイツに会いに行きなよ
   せめて俺が生きている間に旅立って……俺を安心させてよ……
 少年は、彼の祖父の若い頃と変わらぬ声で、祖父の言葉を紡いでいく。優しい口調だったけれど、だからこそシンタローの胸は締め付けられていく。
「俺、おじいちゃんの、あんな哀願するような声って初めて聞いてさ……夢で言ってたってことは、普段から言いたいけれど口にはできないってことでしょ?俺、おじいちゃんのこと、好きだから……せめて俺が伝えられないかなって。――ねぇ、やっぱりこれって、余計なお節介かな」
 戸惑いの表情を向けてくる少年に、シンタローは自分が少年の不安を掻き立てるような貌をしているということに気付く。愛する人のために、自分にできることは何でもやりたいという純粋な心からでたことだから――シンタローはかぶりを振った。
「あの人のことだから、きっと言う時は自分で言うと思うけどな。わかった――捜してみよう。ただ、お兄さんはあの人より18歳年上だっていうからな。もしかしたらもう亡くなっているかもしれないぞ」
「うん――でも、生きててほしいな。おじいちゃんのあの言葉、伝えられないままなんて、そんなの悲しすぎるよ」
 大丈夫、きっと伝わるよ しゅんと項垂れる少年の頭をそっと撫でてやる。確かにその言葉は、この少年の口から、あの人の兄に伝わったのだから。
 人肌に冷めたミルクティーを一気に流し込む。空いたカップを片付けて、シンタローはリビングルームを去ろうとした。
「――シンタローさんっ」
 ドアに手をかけたシンタローの背中に、少年が呼びかけた。どこか、今にも泣き出しそうな顔をして。
「あ、あのっ……シンタローさん、どこにも行かないよね」
「何だよ、急に」
「ご、ごめ…なさい……。なんか……シンタローさんが遠くに行っちゃうみたいな気がしちゃって……」
「遠くも何も、今から買出しに行かんとな。煮込みうどんの材料、冷蔵庫にひとつもないんだ」
 行ってほしくないなら、今日のうどんはナシだぞ 笑いながら、シンタローは背後の少年に手を振った。
 そういう意味じゃないよ ドアの向こうから少年の哀しげな呟きが聞こえなかったわけではないけれど、シンタローはそれには気付いていないフリをした。

 遠い昔、弟が、まだ少年と変わらぬ年だった頃、交わした約束が脳裏に甦る。少年と同じ声が、言った。
 ――世界が平和になったら、一緒にあの島を探しに行こうよ
 シンタローが第一線を退く時、弟はまた言った。
 ――俺が世界を平和にするから
 世界政府総監という役職に若くして就いた弟に、陰ながら支えていくよと言うと、弟は笑って言った。
 ――世界平和のことは俺に任せて。いつでも旅立てるよう、兄さんは準備しておいてよ
 何だそれは、笑って言い返すと、今度は逆に睨まれてしまった。
 ――俺は諦めてないからね。あの約束はまだ有効なんだから
 そして――。かつての弟と同じ声で、少年は言った。
 ――兄さんだけでも……

「約束はまだ、有効なんじゃないのかよ」
 空を仰いで目を閉じる。潮風が束ねていない黒髪を靡かせる。今もここで眠っているだろう弟に、シンタローは呼びかけた。
 旅立ちの時は、刻一刻と近づいている。着実に近づいている。
 なのに。
 眼下にどこまでも広がる青い海。見上げればどこまでも続く蒼い空。どれだけ時が経ってもその景色の色だけは変わらない。
 いつまでも変わらなかったのは、記憶の中にあるそれがあまりにも鮮明だったからだ。ずっとずっと、求めてやまない景色だったから。求めているものとは違う目の前のそれに、遠い日の記憶の景色を重ねていたから。
 もう1度、あの空と海を見るために、一緒に旅立つ――そう約束した。
「なのに、オマエが破るのかよ」
 オマエも結局、1人で別のところに旅立つつもりなのかよ――?
 今もこの目には、あの島の景色が映っている。現実にある景色を見ようとせずに。またひとり、自分を置いて旅立っていくだろう未来に目を背けて。
「――生きてくれよ、コタロー」
 条理から外れた自分が願っても仕方がないのはわかっている。けれど、それでもそうせずにいられない。
 切ないようなもどかしいような気分に加えて、今度は焦りが身を蝕んでいく。
 もうすぐ、もうすぐだから――もう少しだけ、生きてくれ。

 一緒に旅立つ先は、そう――南のはずだろう?



もともとシリーズ化する予定はなかったんです
ただ単に「南行き」というタイトルから生まれたに過ぎなかったんですが…
シリーズになっちゃったんだもんなぁ ホント先のことってわからないよネ