text : PAPUWA <theme from "Here">

[ 空の向こうから ]


「おい、リキッド」
 声をかけられたのは、朝食の後片付けがもう少しで終わろうという時。パワフルちみっこことパプワは早速朝の散歩に出かけていて。こんな天気のいい日は洗濯物もよく乾くし、布団もぽっかぽかになるな〜、などと考えていた時だった。
「なんスか?シンタローさん」
「今日の洗濯当番はテメーだったな。半分手伝ってやる」
 え とリキッドは文字通り目を丸くする。あの俺様主義のシンタローがこんなことを言ってくれるなんて。こんなにいい天気なのに、爆弾でも降るのではないか――そんな心配をしてしまう。
「で、でも……俺が洗濯当番の時は、シンタローさんは掃除を担当してくれているわけで。それもあるのに……」
「掃除はもう終わった」
「だったらパプワと一緒に行けばよかったのに。折角この島にいるんスから、羽を伸ばしてください」
「俺の好意は受け取れねぇってか」
 まさか、そんなことがあるはずない。こうして気を遣ってくれただけでも嬉しいのに、一緒に洗濯できるなんて。
「じゃ、じゃあお願いします。洗い物、もうすぐ終わるんで。先に川の方に行っててくれますか」
 わかった、と短く言い置いて、シンタローは山のように積まれた洗濯物を抱えて外へ出て行った。
 一体何があったのだろう。食器についた洗剤を洗い流しながらリキッドは考える。日頃の行いがいい自分への、神様からの贈物だろうか。……いやいや、特戦時代からの数々のイジメからは誰も救い出してくれなかった。神様がいたらきっと救い出していてくれたはず。だから神様の存在はにわかに信じ難い。それとも、それらのイジメは神様の与えたもうた試練であって、それを乗り越えた褒美として今この幸せをもたらしてくれたというのだろうか。いや、ここで喜んでは後が怖い。もしこれがただのシンタローの気紛れだったら。喜びに打ち震えていた分、落胆もまた大きいに違いない。変に期待しない方が身のためだ。
 真っ白な布巾で、たった今真っ白になったばかりの食器を拭く。銀色のスプーンは自分の姿がきれいに映るまで磨いて。いつもはもっと念入りにやるのだけれど、今日ばかりは超特急でそれらをこなす。シンタローはもう川辺にいるはず。早速洗濯を始めながら、なかなか来ないリキッドにイライラを募らせているに違いない。
「すみませんっ!遅くなりました!」
 案の定、洗濯物の5分の3はすでに残すところすすぎのみという状態にまでもっていかれていて。しまったァァ! とリキッドはもう少し急げなかった自分を後悔していた。深く頭を下げるも、キツイ視線を感じることはなく。衣類の汚れを落とすべく、洗濯板でゴシゴシとやる音だけがシンタローの存在をリキッドに知らしめていた。
 怒ってない? 恐る恐る頭をあげるリキッドに、シンタローは顎をしゃくってリキッドの足下を指す。洗濯板と洗濯盥がもう一式、そこに揃っていたのである。1セットしかなかったはずなのに、いつ用意したのだろう、と考え、そしてここ数日、シンタローが何やら木を切り出していたことに思い至る。その真意を探ろうとリキッドはシンタローを見る。しかし、シンタローは黙々と洗濯し続けるだけだった。
 スンマセン リキッドは呟いて、自身も洗濯にとりかかった。どんな理由があれ、シンタローが手伝ってくれたという事実は変わらない。それを自分がどう思おうが、それは自由だ。俺は嬉しい、それでいいじゃないか――リキッドはそう思い、余計な詮索はしまいとひたすら洗濯に打ち込んだ。

 どこまでも高い青空に、たった今洗い上がったばかりの衣類が気持ちよさそうにはためく。まだまだ太陽は真上にも達していない。1人でやる時よりもずっと早く終わった。これも手伝ってくれたおかげだと、リキッドはシンタローを見つめた。手で目を庇いながら蒼天を見上げるシンタローに、リキッドはいつになく心臓を高鳴らせる。
 余計な詮索はしまい、とたった今誓ったばかりなのに、いとも簡単にそれは揺らいでしまう。俺のこと、想ってくれたからなんですか?自惚れても、いいですか?決して言葉にはせず、シンタローに問いかける。と、シンタローが顔を綻ばせた。ふわりとやわらかく、笑う。それだけで、目の奥が熱くなった。気を抜けば今にも涙がこぼれてしまいそう。
 なンだよ 視線に気付いたのか、シンタローは即座にいつもの厳しい貌に戻る。なんでもないでス リキッドはかぶりを振る。そんなやりとりは日常のこと。そんなことが日常になっていることが、嬉しくもあり悲しくもある。そう、今だけ……この人とこんな風に過ごせるのは今だけなのだから。
「ありがとうございました。洗濯、手伝ってくれて」
 おかげでいつもよりずっと早く終わりましたよ――切なさに胸を締め付けられて、自分を誤魔化すためにリキッドは言った。照れくさくてさっきまでは言えなかったのに、こうして理由ができてしまえばこんなにも容易い。なんだかなぁ と思いつつ、リキッドはシンタローの反応を待った。シンタローはと言えば、そんなこと、と鼻で笑った。
「まったくの好意ってわけじゃなかったからな」
「…………え?」
 わかりきっていたことなのに。それでもリキッドは崖から突き落とされたような感覚にみまわれた。どこかで期待していたということは、それだけシンタローさんにそう想われたいと思っていたんだな、と傷ついた心は冷静に分析を繰り広げている。
 シンタローはそんなリキッドに気付くはずもなく、早々に洗濯籠を拾い上げ家の中に戻っていく。リキッドは動けない。行かなければと思うのに。行かなければ不審に思われるとわかっているのに。それでも動かない身体。傷ついている自分。情けなくて、厭になる。
 自分でさえ厭な自分を、誰が好いてくれるだろうか。そんな自己嫌悪に陥っている間に、シンタローがパプワハウスから戻ってきた。リキッドと目が合っても、リキッドの様子に驚く風を見せるわけでもなく、ましてや励まそうという気配など。ただいつもと同じように、素っ気ない視線を送ってくる。
「あ、あの――」
「もう午前中はやる仕事はねぇな。空いた時間の分、俺に付き合え」
 弁解する間もなく、リキッドは先程以上に目を丸くした。いきなりの誘いに、喜ぶことすらできず、ただただ驚いていた。

 別段どこへ行くというわけでもなく。リキッドはパプワハウスの裏手の空き地でシンタローと相対していた。間合いをあけて呼吸を整える。南国に似つかわしくないピリピリとした空気が辺りを漂い始めていた。
 あの後シンタローは放心するリキッドに言った。組み手に付き合え、と。何だそんなことですか などと落胆するようなこともなく、リキッドは手放しで喜んだ。
 願ってもないこと、だった。番人として、この島で暮らす者たちを、パプワを守るという使命がリキッドにはあった。しかし――。正直言って、リキッドよりもパプワの方が何枚も上手だった。戦わねばならない事態に陥ったとして、自分は果たして彼らを守り通せるのだろうか。本来守るべき存在から守られるなどということになってしまうのではないか。そんな不安が常時リキッドに棲みついていた。家事の合間を縫って身体を鍛えるも、特戦時代ほどの効果は期待できず。さらに不安は大きくなっていったものだ。
 手伝ってもらってできた時間に、さらに組み手に付き合ってくれるなんて。感謝の言葉でいっぱいだった。しかも相手は惹かれてやまないヒト。ガンマ団ナンバーワンと謳われたヒト。これほどの幸せはなかった。
 邪念を振り払うように息を大きく吐き、相手の出方を窺った。シンタローは瞑目して精神を集中させているようだった。息が詰まる、けれど決して不快なものではなく。心地よい緊張感が全身を覆っていく。
 シンタローが目を見開く。瞬間、リキッドは地を蹴った――

 小一時間後。差し出された水を、リキッドは一気に胃に流し込んだ。完全な真水ではなかったらしく、どうやらスポーツ飲料に近いものだったらしい。ほのかな甘味が舌に馴染む。もっともっとと欲しがる渇望感に一頻り応えてやって、ありがとうございます と、座り込んでいたリキッドはシンタローを見上げた。
 自分はまだまだ息が上がって動けないでいるのに、シンタローはリキッドの水分補給の心配をしてやれるくらいには余力を残しているようだった。いや、まだまだ十分な力を残していると言った方が正しいのだろう。手合わせしている間も始終感じていた、シンタローの余裕。圧倒的な差。組み手に付き合えと言われて、しかし実際は自分が一方的に稽古をつけてもらっていたようなものだった。涼しい顔をしているシンタローに、リキッドは申し訳なく思う。シンタローが自分に要求していたものを、自分はしっかり返せているのだろうか、と。
「カッコ悪いっすよね。番人のクセに、こんな」
「いや。元特戦だけあって、それなりに手ごたえはあった」
 言って、シンタローは手を差し出してきた。この手をとって起き上がっていいものか、おずおずと手を伸ばすと、逆にシンタローにひっぱり起こされてしまった。思わず赤面して、リキッドはシンタローから視線を外した。
 シンタローは、総帥の座につくまで、ガンマ団ナンバーワンと謳われていた。総帥一族の持つ技、眼魔砲を操ることができ、そのうえ実戦では武術を中心に銃からナイフまで使いこなす。リキッドが所属していた特戦部隊はガンマ団でもエリートと呼ばれた者から選び抜かれた連中の集まりだったが、それでもシンタローの強さはまた別格のように思えていた。元上司や元同僚たちが、このシンタローとサシで勝負しているのは見たことがないから、特戦と彼のどちらが上かという判断はリキッドにはし難いが。いや、判断がし難いほど、彼らの強さの域に自分は手が届いていないのだということは理解できていた。
 そう、あのえげつない上司や同僚たちとも張り合える強さを持つ男だ。上司や同僚たちにとって自分が取るに足らない存在だったように、シンタローにとっても自分はそんな存在なんだ。視線を彷徨わせながらリキッドは思った。普段なら気にならないほんの一瞬の沈黙も、何気ないシンタローの目線も、全てが不安を助長させてしまう。
「あのっ、総帥やってても、こうやって普段からトレーニングとかされたりするンすか?なんか、すげー忙しそうなデスクワーク業ばっかってイメージがあるんスけど」
 明るくまくし立てるのは、それだけ自分は怯えているということだ。わかっている、わかっているからこそそれをシンタローに気付かれてはならない。無理にへらへらと笑ってリキッドは当人に訊ねた。
「あー、でも。前総帥の時は、マジック総帥自ら戦場に立つことも結構あったっていうし。でも俺がガンマ団本部に立ち寄った時って、いつもマジック総帥は総帥室にいたんすよね。それでデスクワークなんてイメージがあんのかな」
 普段より饒舌になっている自分。明らかに不自然だ。文法もいろいろ間違っているのではないかと、言ってしまったことを反芻しようとするが、先に先にいらぬことが口をついて出てしまう。
「でもでも、マジック総帥がトレーニングって、そんな想像もあんまりできないっすね。隊長もそうだったけど、何もしなくても持ち前の強さで十分っていうか」
 それは自分の抱いていた劣等感でもあった。ある意味、ハーレムに拾われたことは幸運なことだったのかもしれない。喧嘩に明け暮れる毎日で、その界隈では自分に勝るものはいなくなった。井の中の蛙のように、知りもしない世界の頂点に立った錯覚に陥ったこともある。自分を過信しすぎていたあの頃。そんな自分に、上には上がいるのだということ、世界はもっと広いということを教えてくれた。死ぬ思いは何度もしたけれど、今こうして自分のやりたいことを見つけられたのは、ハーレムにガンマ団に連れてこられたからだった。
 そんなことに想いを馳せていると、シンタローが表情を曇らせて頷いた。何か拙いことを言ってしまっただろうか、と詫びの言葉を口にしようとするが、その前にシンタローの声に遮られてしまった。
「確かに親父やハーレムがトレーニングしてるなんて、俺も見たことはない。けど、そういう姿を誰にも見せようとする人じゃないってこともわかる。テメーもそう思うだろ?」
「ええ、それは」
「それなりに苦労はあったと思うぜ。それから親父がいっつも総帥室に入り浸ってたのは――チッ、考えるだけでもハラワタ煮えくり返ってくる」
 苦虫を噛み潰したようなシンタローの表情に、リキッドは思い当たる節があった。そういえば、当時の総帥室には膨大な数のシンちゃんグッズが存在していたはず。
「総帥業にデスクワークが多いのは事実だけどな。しかも地味な仕事ばかりだ。かといって、俺も戦場に立たないわけじゃない。実際、コタローを迎えにこの島に来る直前は遠征に出ていたからな」
 迎えに来るのが遅くなった理由にはしたくないけどな 言って、シンタローは空を仰ぐ。それはこの島で何度も見る彼の姿だった。何かを見出すように、すっと目を細めて空を探る。鳥の姿に目を留めては、落胆したかのように息をつく。それが何を意味しているのか、リキッドは気付いていないわけではなかった。
「前線に出るわけだから、鈍った身体で出るわけにもいかねぇ。自分の命に関わる問題だし、部下たちに余計な気を遣わせたくない。デスクワークの気分転換も兼ねて、身体は毎日動かすようにしていた。キンタローに付き合ってもらってな」
「キンタローさん、に……?」
「ああ。俺が本気出して戦えるのはキンタローしかいなくてな」
 落胆している自分を、リキッドは無視することができなかった。ああ、自分はキンタローさんの代わりでしかないんだ――客観的に自分を見つめることができていたなら、それは考えすぎだろうと自分を励ますこともできただろう。そして普段のリキッドならば、持ち前の明るさでそれも乗り切ることができただろう。しかし、恋慕の情はこれほどまでにリキッドを臆病にさせていた。自ら悲観することによって、己を守ろうとするほどに。
 何度自惚れてはならないと自分に言い聞かせたかわからない。何度も言い聞かせたからこそ分かっていたはずなのに。いくら彼のことを想っても、彼が自分を想ってくれることなどありえない、と。たとえ自分を想ってくれたとしても、彼にはそれ以上に想うべき人がいるのだ、と。自分は彼にとって、特別な存在ではないのだ、と。
 赤の番人になるにあたって、秘石に番人としての素質を与えられた。精神的に年はくっても、身体は4年前のまま老けることはない。この島を守るための力もそれなりに手に入れた。それでもまだまだパプワには敵わず、久しぶりに再会した上司や同僚たちにも散々いびられた。近づけたと思っても、それはまだまだ遠くて。もともとの強さに加えて、身体だけでも赤の番人のものを持っている目の前の男は、さらに遠い存在のように思えた。
 その彼と、同じ場所で張り合える人――それがキンタローだった。リキッドとてキンタローを知らないわけではない。シンタローがコタローを連れ戻しにこのパプワ島に来たときに、彼もシンタローに同行してこの島に来ていたから。パプワハウスで朝食を共にして、キンタローがお気遣いの紳士であるということもわかったが。何より4年前の印象が強く残っていた。圧倒的強さを以て、シンタローとして、今リキッドの目の前にいる男を殺そうとしていた、あの4年前の印象が。
 この4年間に、彼とシンタローの間にどんな変化があったのか、リキッドが知っているはずもない。4年前も、キンタローにとってシンタローは特別な存在だった。今もそれは変わらないのだろうが、明らかにその質は変わっている。キンタローと関わっていた時間の短いリキッドでさえ思うのだから、身近にいる人間から見ればそれは相当な変化なのだろう。
 シンタローにとってのキンタローは、彼の中でどのように変化していったのだろう。気になって、リキッドはちらりとシンタローを窺い見る。身体のクールダウンにいそしむ彼は、リキッドのそんな視線には気付いていない。
 いや、今さら勘繰る必要などないことだ。そんなこと分かりきっている。空を仰いで、何かを見出そうとする視線を見れば、それは一目瞭然だ。いらついて当り散らすこともなく、ただただ空の向こうからやって来るはずの艦を探す。落胆したような素振りを見せても、大切な存在だからこそ、信頼しているからこそ、そうやって落ち着いていられるのだろう。
 探し物が見つかった時、きっとシンタローは顔を輝かせるに違いない。そんな彼を引き止める術など、リキッドは持ち合わせていない。己の感情のままに彼を引き止めるなどと、そんな醜態を曝したくはなかった。せめて彼がこの島を離れていく時は笑顔で見送りたい。シンタローの生きる世界はキンタローのいる世界で、自分がその世界に存在するには、思い出というカタチでしか存在できないのだから。
 いい思い出として存在していたいからといって、偽りの自分を演じていようなどとは思わない。本当の自分を曝け出して、その上でシンタローがいい思い出として自分を記憶の片隅に残しておいてくれたらと願うばかり。
「シンタローさんっ!まだまだ終わってませんよ!!」
 昼飯は何にすっかなー そう呟きながらパプワハウスに足を向けたシンタローの背中にリキッドは叫んだ。
「まだまだって……テメーがへばったからお開きになったんじゃねェか」
「だからまだまだだって言ってるんス!俺、もっと強くなりたいんすよ!!」
 『それなりに手ごたえはあった』程度で終わりたくない。
 今はキンタローの代わりで構わない。代わりにさえなれないことも先刻承知だ。
 そして、一生懸命な姿を認めてもらいたいというわけでもない。そんな思い出になるのは一番屈辱的だ。
 『特別』な存在は、何もひとつに限らない。シンタローの「好意を抱く」という点での特別な存在にはなれなくとも、もっと別の道があるはずだから。
 求めるは、強者としての自分を彼の記憶に刻むこと。彼の中に、永遠に不動の地位を刻むこと。
 自分の中での彼がそうであるように――



書く話がみんな同じに思えて悩んでた気がするよ、この頃
これもいい思い出、かな
切ない話を書くのが好きだから仕方ないよねェ…