text : PAPUWA <theme from "Here">
[ リトル・ガール・トリートメント ]
――俺は泣くぞ。夢を見たら。
全面窓の向こうに広がる薄紺の雲海。月の光に艦の影がゆらゆら揺れる。その様をシンタローは座り込んで眺めていた。考えるのは、キンタローのあの言葉。グンマの研究室に入ろうとして聞こえたあの言葉。ぐさりと胸に刺さり、部屋に入るのを躊躇わせた。
「夢、か――」
ここしばらく、夢を見ていないなとシンタローは思った。見る暇がない、というのが真実か。見られるほど睡眠をとってない。ベッドに横になることすら少ない毎日だ。
単調な景色。雲の形は変われど、それをおもしろいと思えるような余裕などなく。出るのは溜息ばかりだ。窓に映る自分の顔は、自分で見ても疲れが色濃く表れていて。けれど休めない自分がいる。すぐそこにいる、嘲笑うような、泣き笑うような自分。複雑な表情だな、と自分でも思う。確かつい最近もそう思ったことがあった。
それはキンタローの寝室である出来事が起こった後、だった。グンマにはああ言ったが、常に一緒にいるといっても、未だぎこちない雰囲気がシンタローとキンタローの間にはあった。きっちり話し合ったことがあったわけではないから、シンタローはキンタローの真意を図りかねていた。どうして俺のそばにいてくれるのか――問いかけてもはぐらかされる日々。堪り兼ねて、シンタローはある計画を立てた。酒の勢いならば話してくれるのではないか、と。しかし、その酒盛りも、結局翌日の仕事に差し支えるからと、キンタローに自室へと押し戻されてしまった。キンタローの勝ち逃げ、という形で。
あの酒盛りは、スキンシップの一種のつもりでもあった。ダメでも、キンタローとの距離を縮めるくらいになればそれでいいと思っていた。そうすれば、いつかきっと話してくれるだろうから。だから、部屋に押し返された後、再びキンタローの寝室を訪れたのは、そこまでしてそばにいる理由を聞きたかったわけではない。腕時計を忘れていったのだ。それを取りに戻った、それだけのことだ。
中にいるはずのキンタローに声をかけたが、返事が返ってくることはなかった。仕方なしに中に入ると、キンタローはベッドに横になり、穏やかな寝息を立てていた。それこそ、シンタローの呼びかけにも気付かないほど深く眠っていた。
自分と酒盛りをしていたときは閉まっていたはずのブラインドは、今は下ろされていなくて。傾きかけた月の光が窓から差し込んでいた。青を基調とした部屋が、淡い光に海の底のように見える。さながら、そこで眠るキンタローはシャチのように思える。眠っていたり、大人しくしていればかわいいのに、一度本能に従えば獰猛になる。ほら、今だってこんなにかわいかったり――とはシンタローは思わないようにはしたけれど。いや、少しでもそう考えたからこそ、口元が緩んでしまったのだろう。こちらに背を向けて眠るキンタローを横目に見つつ、シンタローは窓辺に歩み寄った。酒に強かったのは俺の方かよ、なんて言い訳のように思いながら。
ブラインドを操作するボタンに手をかけようとした瞬間だった。寝ているキンタローが僅かに呻き声をあげ、寝返りを打った。起こしてしまったか、とその顔を窺おうとして、シンタローは息を呑んだ。月明かりに、キンタローの目許がきらりと光ったから。一粒どころではない。涙が、ぽろぽろと零れ落ちて枕を濡らしていた。
結局何もしないままシンタローはキンタローの寝室を後にした。ブラインドも下げなかった。もちろん涙を拭ってやるような真似もできるはずがない。自分があの場所にいたことを、キンタローが涙を流したときに居合わせたのだという形跡を残したくなかった。本来の目的であった腕時計も持ってくることはできなかった。それが一番できなかった。時計を見つけられなかったというわけではない。確かに腕時計はキンタローの部屋に忘れてきていて、それはその部屋にきちんとあった。それなのに持って帰ってくることができなかったのは、その時計のあった場所に問題があった。
腕時計は、キンタローの枕許にあった。キンタローは、シンタローが腕時計を忘れていったことに気付いているだろう。だからきっとそれを持ち出せば、シンタローが来ていたことがキンタローにばれるから――それもあったかもしれないが、腕時計を持ち出せなかった理由は他にある。寝る直前まで手にとって見ていましたと言わんばかりの状況。今さっき、手から枕許に転がり落ちましたという状況。それに、手が出なかった。
部屋に戻った後、シンタローは今と同じように窓辺に座り込んだ。そうして窓に映った自分の貌を見て、同じようなことを思った。なんて顔してんだよ、と。そうしてそんな顔をしている理由について考えを馳せる。やはり、申し訳ないと思っているからなのだろう。24年間という取り戻せない時間をキンタローから奪ったことに対して。あの島から帰還して、そのことについてキンタローに詫びようとしたら、もう気にするなと無感情な声で言われた。これ以上そのことを口にするな、と言外に言われた気がした。キンタローの、シンタローに対する心遣いなのだろうし、本当にもうそのことに触れて欲しくないだけなのかもしれない。それなのに、未だこのように引き摺っていては、キンタローを侮辱しているような気がしてしまう。だから、頭を振ってその考えを追い出そうとするけれど、顔を叩いて気合いを入れようとするけれど、それらは双方とも失敗に終わる。頭を振れば振るほど考えは大きくなって、頬を叩けば叩くほど情けない貌になっていった。
その日はそのまま眠ることはなかった。酒も回っていたはずなのに、それすら吹き飛んでしまったようだった。改めて飲みなおすなどという気にもならなかった。
翌日、キンタローが腕時計を持ってシンタローのところにやってきた。しかし。
――失くしちまったみたいでさ。そう言ったら、親父が前のと同じのを押し付けてきやがった。
シンタローはキンタローが持ってきたものを受け取らなかった。忘れたことには気付かないフリをして、急いで手に入れてきた同モデルの腕時計を示した。キンタローが、これがオマエのだろう、と言ってきても、どうにかとぼけて誤魔化して。そのままキンタローに預けてある。シンタローが腕時計を受け取るのを拒否した瞬間、ちらりと過ぎったキンタローの傷ついた表情に心を痛めなかったわけではないけれど。どうしても、その腕時計を受け取る気にはなれなかったのだ。
窓に寄りかかって、額を押し付ける。夜の冷気が肌に気持ちいい。あの件から、もう一月あまりが経つ。腕時計を受け取らなかったことで、2人の間の空気が少し変わったのも事実だったが。それは当人だけにしかわからないもので、傍目には変わらず総帥と優秀な補佐官として映っているのだろう。そう、そう見えるように振舞っていたのだから、それでいいのだ。2人の間のことで、他の人間――グンマや部下たちに余計な心配をかけたくない。私的な事情で、ガンマ団に関係する者たちに影響を与えてはならない。
瞑目し、溜息をつく。ややあって目を開ければ、白く曇っていたガラスが再びそとの風景を映し出そうとしているところで。雲間から、月光を反射させる海が見えた。
「灯りも点けずに何をしている?」
扉の開く機械音と共に、通路の灯りが部屋に漏れてくる。突然の眩しい光にシンタローは目を細めた。キンタローが、部屋の入口に立っていた。
「仕事をしていない時間はできるだけ休めと言っただろう」
「だから休んでるじゃないか。こうして景色を眺めてるってのも、結構落ち着くもんだぜ」
そう言って視線を窓の外に移すも、キンタローによって部屋の灯りをつけられては、外はただ暗闇に映るだけだった。
「身体を休めろ、と言ったつもりなんだがな。いいから寝ろ」
「そういうキンタローこそどうなんだよ。俺のこと棚にあげといて、まだ起きてるつもりか?」
コーヒーを淹れるキンタローの背中を見ながら、シンタローは溜息混じりに言った。
「オマエが寝るまで寝ないと決めた。そうすれば、シンタローも休まざるを得まい?」
「チッ……とうとう強硬手段にでやがったか」
幹部会でも、眠らずに己を酷使する新総帥の無茶が議題に上ったりもしていた。シンタローは、保守派の年寄り連中の、自分の方針に反対しての御託だと気にも留めていなかったのだが。反新総帥派の連中が、その総帥の身体の心配などするものか。自分たちの主張以外には目を向けようとしないその年寄り連中でさえも、その無理に言及しないでいられないほどシンタローの日々の労働は過酷を極めていたのだ。
キンタローのこの発言が、幹部会の連中の決定によるものなのか、キンタロー自身が決めてやったことなのか。そんなこと考えるまでもない。自分の身体を壊してしまってもいいとまでは思っていないが、それよりもまず、自分以外の誰かが倒れるような目に遭うのは御免だった。キンタローのこの脅しは、シンタローのことをよく理解しているからこそのものなのだろうが……
「で? 何で俺にもコーヒー淹れるんだよ」
2つのカップを持って近づいてきたキンタローに、余計眠れなくしたいのかと、シンタローは侮蔑の目を向ける。しかし、キンタローは、してやったりといった表情を浮かべた。
「オマエのはホットココアだ。しかもミルク仕立てにしてある。これでゆっくり眠れるだろう?」
腰を下ろしているシンタローと、すっと背筋を伸ばして立っているキンタロー。甘くて温かくて、しかも牛乳入りだからな――そう言われてカップを手渡され、そして頭に手を置かれれば、子ども扱いされているという感が否めない。むすっとして、反撃してやろうとキンタローを見上げるも、シンタローは言葉を紡ぐことはできなかった。キンタローの、痛々しい表情がそこにあったから。
一月前の彼と、被って見えたわけではない。ただ、どういう理由で表れたとはいえ、キンタローのそういう類の表情は、シンタローをぎくりとさせる。責められているわけでもないのに、責められているような気がする。酷く自分が罪深い人間に思えてしまう。やはり、後ろ暗いところをキンタローに対して持っているからか。
膝を折り、キンタローは見上げていたシンタローと同じ高さにまで目線を持ってきた。見つめてくる貌は、傷ついているという貌ではなく、心底心配しているといった貌で。
「自分を大事にしてくれ……シンタロー……」
掠れた声で。力もなかった。ふっと目が閉じられ、ぐらりと揺れた身体がシンタローに凭れかかってくる。咄嗟にシンタローはキンタローのカップを手に取った。高温のコーヒーが零れることはなかったが、金の髪が目の前を過ぎり、キンタローの頭はシンタローの肩口に乗せられた。乱れている呼吸。触れた身体が、酷く熱かった。
「ちょっ……おい、キンタロー! 何こんな熱出してんだよ!?」
「……熱? ……普通人間はある程度の熱を体温として保っていると思うが……そうだな、常時よりは多少高くなっているかもしれないが」
「多少どころの問題か!? それになァ、ある程度の体温がどーのこーのって、ガキの理屈か!?」
こんな身体で自分が寝るまで寝ないとぬかしやがるか、と歯の奥をギリと噛む。それよりも、キンタローがこの状態になるまで気付かなかった自分が許せなかった。とにかく寝かせなければと、キンタローの腕の下に身体を入れた。キンタローは自分で歩けると身体を捩ったが、力ない声で言われては説得力も何もない。一瞥して黙らせ、ベッドに運んだ。すまなさそうな顔をして唇を噛むキンタロー。安心させてやろうとキンタローの髪を撫でてやる。一応寝かせはしたが、これだけでは治らないので、夜勤のドクターを呼びに行こうとシンタローは立ち上がった。しかし。
「キンタロー? どうした?」
キンタローの手が、シンタローの服の裾を掴んでいた。振り返ったシンタローの目に映ったのは、驚きに目を見開いているキンタローで、その様子からして、彼自身もどうしてシンタローを引き止めていたのか分からないらしかった。高熱のため震えている手がシンタローから離れていく。なんでもない、と顔を背けるキンタローに、シンタローは口元を緩めた。病気で不安だけれど心配はかけたくない――そう意地を張っている少女のように思えたから。
今度は部屋の外へではなく、シンタローはデスクに向かった。ほんの一刻前まで仕事をしていたその机には、数枚の書類と万年筆が置かれ、先程キンタローが淹れたコーヒーとココアが湯気を立てている。シンタローはデスクの端に置かれたダークグレイの電話を手に取る。内線で医務室を呼び出し、ドクターにすぐ総帥室に来るよう言いつけた。
「これでいいか?」
振り返り、キンタローに視線を投げかけた。しばらく瞬いていたキンタローだったが、やがてぎこちなく頷いた。
「シンタロー、すまな――」
「謝るなよ。部下をそこまで酷使させた上司の責任だ」
幹部会の年寄り連中が異議を唱えるほど性急な改革でも、若手ならばついてこられると思っていた。過信していたわけではない。個人や部署それぞれの能力をきちんと把握した上で裁可を下していたはずだった。それなのに。目の前に山積みになった問題にばかり目が行って、一番近くにいたはずのキンタローの異変に気付かなかった。これでは他の者達もまいっているに違いない。しかし、ここでこの変革のスピードを緩めるわけにはいかない。部下たちを休ませる分、自分が――
「俺の分まで自分に鞭打つような真似はしないでくれ、シンタロー」
心の中を読まれた気がして、シンタローは身体を震わせた。見ると、キンタローが真摯な眼差しでこちらを見つめていた。
「オマエはもっと、オマエ自身を厭ってくれ、シンタロー」
堪らずシンタローはキンタローから視線を外した。あまりに真っ直ぐすぎる視線は、自分に対して敵意を持った視線でもないのに威圧感に満ちていて。いや、敵意など孕んでいないからこそ受け止めきれる代物ではないのかもしれない。
「約束してくれ、シンタロー」
声色は決して強くないのに、心に重く響く。それはキンタローがどれほど自分を心配してくれているか、シンタロー自身よくわかっているから。彼の言葉に偽りがないのはわかりきっていること。しかし。
「――怖い夢を見て、今も泣くのか」
どうしてそばにいてくれるのか、別段その理由を知らなくても、そばにいてくれることは嬉しかった。こうして彼自身倒れながらも、自分のことを思ってくれることから、キンタローが自分に対して負の感情を抱いてはいないということはわかる。けれど、脈絡もなくこんなことを訊いてしまうのは、彼の言葉の奥にあるモノを知りたいと思うから。本当に俺のそばにいてもいいのか?本当にもう俺に対して負の感情を抱いていないのか?訊くまでもないことだとわかっていても、訊かずにはいられない。自分はキンタローに対して、これほどまでに臆病だったのだと、今さらながら気付かされる。
――怖い夢を見るのは、やっぱり俺のせい、だよな。
本人が気付いていなくとも、心には24年の憎しみが染み付いているのではないか。だからそんな夢を見るのではないか。
人間誰しも人に憎まれていたいなどとは思わないだろう。自分が心許している人間から憎まれるというのは、やはり傷つくものだと思う。シンタローも、キンタローを気に入っている分、憎まれていたくないとは思っている。しかし、憎まれて当然のことを自分はしていて。それを何の見返りもなく許すと言われれば、余計心が痛んだ。先日、キンタローが「夢を見て泣く」とグンマに言っていたのを聞いた時、内心ほっとしている自分がいたのも事実だった。
「昔の――オマエの中にいた時のことを夢に見て泣いたのだと言えば、オマエは俺に謝ろうとするだろう」
キンタローは、シンタローの心を読んだようにそう言った。シンタローは、頷く代わりに唇を噛んだ。その様子を見てか、キンタローは溜息をつく。
「期待を裏切って悪いが、それは違う。俺は怖い夢を見て泣いたのだとは一言も言っていないと思うのだがな」
え? とキンタローの方を向くと、彼は悲しげな表情をすっと過ぎらせた。
「オマエから独立することができて、やっと夢を見られて嬉しいのだと言えば、シンタローはそれで救われるか?」
「それは――」
「しかし、そんなことを訊くのは詮無いことだな。そういうことが嬉しくて泣けるほど、俺はできた人間じゃない」
「じゃあ何で泣いたんだよ」
「――……オマエには聞かれたくなかったな。『夢を見て泣いた』なんて。その理由を言えば、きっと、オマエを困らせるだろうから」
「そんなに――俺には言えないような夢だったのかよ」
「ああ、そうだ。夢の中で、オマエの温もりを感じられないことを思い知らされて泣いたなんて……そんなこと、言える筈ないじゃないか」
心臓を掴まれたように呼吸もままならないシンタローに代わって、キンタローは熱い息をついた。高熱によるものか、言ってしまったという観念した溜息か、それは図りかねるが。
「この1ヵ月はまた別の夢も見て泣いたな。せめて夢の中で感じられない温もりを感じていたいとずっと側にいるのに、オマエの心がわからない――そんな夢ばかりだ」
言って、キンタローはどこからか腕時計をとりだした。
「どんなに考えてもわからなかった。だからもう、オマエに訊くしかない。この時計がオマエのものであることは間違いないはずなんだ。それなのに、どうしてこれを受け取ろうとしなかった?」
別の時計をわざわざ用意してまで、と無理に身体を起こしてくる。介助してやるべきだったのだろうが、身体が動かなかった。注がれる視線が、とても重く感じられた。
「あの夜、オマエがその時計を手にして泣いていたからだよ」
キンタローの涙を見たとき、自分はとんでもない罪を犯してしまったような気持ちに襲われた。それはキンタローに対して後ろめたい部分を多く持っていたからで、シンタロー自身もそれを自覚していた。あの涙の原因は何だったのか、それをシンタローは知ることはできなかったが、キンタローが手にしていただろうシンタローの腕時計のせいであるような気がした。それならば、その原因となる腕時計は早々にキンタローから引き離すのが一番の得策だったのかもしれない。しかし、それさえも躊躇われたのは、キンタローを苦しめた自身の腕時計を、シンタローは穢らわしいものに感じてしまったから。
あれから部屋に来ていたのか――そう問いかけるキンタローに、シンタローは小さく頷いた。気まずくて受け取れなかったと言えば、そうか、とキンタローは時計に視線を落とした。
「そういえば、あの日はいつもと違った夢を見たな」
重苦しい沈黙の後、それを吹き飛ばそうとするかのように、それまでとは違った調子でキンタローは言った。
「夢の中でもシンタローを感じることができた。孤独を感じることはなくて――嬉しくて泣いた覚えがある。シンタローの腕時計のおかげだな」
「嘘つけ。何を今さら」
キンタローの優しさであることは、近くにいたシンタローが一番よく理解していた。しかしキンタローは、真剣な眼差しを返してきた。
「嘘をついてどんなメリットがある? 嘘でもこんな恥かしいことは言いたくないのだがな、ここまで告白してしまったついでだ、もうどんなことでも言ってやる」
「――マジかよ」
「そう言っているだろう。――だから受け取れ、シンタロー。これはオマエの時計だろう?」
差し出された腕時計をシンタローは見下ろす。心なしか、シンタローが身につけていた時よりもきれいに磨かれているような気がする。
「嬉しくて泣いた、その夢を見て……キンタローはどう思った? また、見たいと思える夢だったか?」
訊ねると、キンタローは逡巡することなく頷いた。その率直さを見て、シンタローはそれまでの自分が莫迦らしくなった。何を勘繰りすぎていたのだろう。ただ自分が弱かっただけか。傷つくのを恐れて、キンタローを信じることができずにいた。こんなにも、彼は自分を想っていてくれたというのに。
もはや腕時計を受け取れない理由はどこにもなかった。
しかし。
「左腕、貸せよ」
シンタローの意図を解せず、キンタローはただ素直に左腕を差し出した。右手に握られていた腕時計を、その左手につけてやる。
「なっ……シンタロー、どういうつもりだ」
「どういうつもりも、オマエにやるって言ってるんだよ。そうだ、同じだけどコレもやるよ」
自分の腕の時計を、今度は右腕にはめてやる。
「これではシンタローが困るだろう! 分単位、いや秒単位でスケジュールの決まっているオマエだ、時計がなかったら――」
「その代わり、キンタローがずっと側にいてくれるんだろう?」
「ッ!?」
これだけの高熱を出しながら顔色ひとつ変えなかったキンタローが首まで真っ赤になっている。その様を見て、シンタローはようやく笑うことができた。
「冗談だよ、半分な。さすがに24時間オマエを拘束することはできねぇから。やっぱり時計は必要になる。けど、とりあえず今は俺の温もりたっぷりのその時計を俺だと思って寝ろ。しっかり養生しな」
身体を起こしていたキンタローの額をついっと押してやる。顔色は変わらなくとも、やはり体調の芳しくないキンタローは、いとも簡単にベッドに倒れこんでしまった。もちろん、急に倒れこまないようにシンタローの手がキンタローの身体を支えてはいたが。
「回復したら渡してくれたらいい。けど、その時計じゃねぇぞ。その時計はオマエにやったんだから。別のをキンタローが選んで、俺にくれ。そうすればもう二度と、どこかに忘れるようなことはねぇだろうから」
寒くないように羽毛の布団をきちんとかけてやる。その下でキンタローが固まっているのが分かって、シンタローは失笑する。
「殺し文句だぞ、それは」
言って、キンタローは布団を頭まで被った。
「もっと言ってほしかったらいくらでも言ってやるぞ。恥かしいセリフ言わせちまった詫びだ」
僅かに見える金糸をシンタローは梳く。何か言いたげな蒼い眼が布団から覗いた。自分とキンタローの視線が、絡まった。
「――なに?」
「――なんでもない」
ふいっと、再び布団に隠れていく瞳。それだけでわかった気がした。キンタローが、何を言わんとしていたか。当たり前だろ そんな意を込めて布団を3回叩いてやった。
来室を告げる音がシンタローの耳に届く。やって来たのは士官学校時代の同期のドクター。慌てた様子の彼に、それほど大事じゃないとは思うが、と言い置いてその場を任せた。邪魔にならないよう、そっと席を外す。
通路に出たシンタローは、手近にあった窓に身を寄せた。強化ガラスは相変わらずひやりと肌に冷たい。しかしそこに映る自分の貌は、それまでのものとは明らかに違っていた。自分でも思う、やわらかな表情。マジックやグンマに見られでもしたら、一体何があったのかと問い詰められること間違いなしの。心なしか身体も軽く感じる。腕時計ひとつ外したくらいでこれほど身体は軽くはならないだろう。それほど、自分はキンタローに影響を受けていたのだろう。
視線が絡まった瞬間、声が聞こえた気がした。ソレデモソバニイテクレルカ? それは双方の声だった。キンタローの声は、出て行こうとした自分を引き止めたとき同様、気丈な幼い少女のような声に思えた。風邪を移してはいけないとは思う、けれど本当は心細いんだ――聞き分けのいい大人に見られたい、けれどまだまだ子どもなんだという、そんな声。そして自分の声は――。
扉が開いてドクターが姿を現す。無茶をさせすぎだと、シンタローは総帥だというのにこっ酷く叱られてしまった。後で薬を届けさせると言ってドクターは踵を返す。わかった、と溜息をついて部屋に入ろうとしたとき、背後から追い討ちがかかる。総帥もいい加減休んでください、と。一応敬語ではあったが、それでも士官学校時代の懐かしい感じがして妙に心が温かくなった。
キンタローはすでに寝息をたてていた。シンタローはベッドに腰を下ろし、彼の寝顔に見入った。
「なぁ、キンタロー。オマエにも聞こえたか? 俺の声、どんなだった?」
安らかな寝顔――その目許に光るものは見えなかった。
キンシン、本当に好きだったんだなぁと思います、読み返してみると(今ももちろん好きですよ?)
実はまだ、書きかけのキンシン話のデータも残ってるはず…
時間があったら書いてみるかな