text : SUMMON NIGHT

[ perish in blaze ]


僕は、最近周囲を取り巻く状況にうんざりしていた。
勉強はそれなりに軌道に乗っているし、進路についても悩んでいない。
友人関係は自分では満足できているからそれでいいし、教師との衝突もない。
そう、学校での生活は巧くいっているほうなんだろう。
悩んでいるのは、家庭の状況だった。

近頃、僕の家にある女がよく出入りしていた。
歳は30代後半に差し掛かった頃。橋口という女で、父さんの秘書だ。
会社の社長でもある父さんだけど、父さんは深崎流剣術の現当主で道場の経営もしていかなければならない。
会社側の理解もあって、一週間の半分は午後の早い時間に家に帰ってきていた。
橋口は、そんな父さんの公の場での支えとなっていた。
そして今、私の場においてもその支えになろうとしているのだ。

初めは、父さんを家まで送り届けた後、ついでに道場を覗いていく程度で終わっていた。
けれど、いつしか食事を共にするようになり、さらには僕の家に泊まることさえあったのだ。

僕も莫迦じゃない。
父さんと橋口の関係が、単なる社長と秘書の関係ではないことには気付いていた。
父さんはそれほどではないのかもしれないが、橋口は明らかに本気だった。

父さんが再婚を考えていたとしても、それは別に構わない。
父さんの人生だから、僕が口出しする謂れもない。
それに、本当の息子でもない僕がどうのこうのと言える立場にないと思っていたこともある。
だからって、父さんが結婚したからって自分の居場所が無くなるかもとか、そういうことで悩んでいたわけじゃない。
僕は、橋口が気に入らなかったのだ。

彼女を交えて食事するのは構わない。
稽古の様子を見にくるのも別に気にならない。
あの目と態度が気に入らないんだ。
憐れむようなあの目、そしてあの――







運命のあの日、稽古を終えた僕は、滅入った気を紛らわすためにあの公園に行こうとしていた。
この日は父さんが早く帰ってくる日ではない、だから、橋口が家の門のところにいるのが不思議だった。
けれど、僕には関係ないだろうと思って、別段気にしてはいなかった。
シャワーを浴び、出かけようとしたところを、僕は橋口に呼び止められた。

「籐矢くん……。ちょっと話があるんだけど、いいかしら」

その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かがチリっとはじけた。
胸騒ぎ。
何か悪いことが起こる――いや、まさに今起こったかのような。

「なんですか。僕、急いでるんですけど」

僕はトーンを低くして言った。
僕の声を聞いて、彼女は一瞬躊躇うような表情を見せた。
これくらいで躊躇するくらいの話なら、次の機会にしてほしい。
しかし、彼女は意を決したかのように僕を見た。

「あなたの了解を得ておきたくて。
 あの、私、あなたとは家族になりたいと思ってるの。だから――」

「だから何だって言うんですか。
 僕の了承なんてなんの意味も持たないんですよ。
 父さんと結婚したいのならすればいい」

すでに分かっていたことじゃないか。
今さら僕に聞くほどのものでもない。
たとえ僕が反対したところで、父さんと彼女の問題なんだ、僕の意思なんて反映されないだろう。

それよりも、僕は焦っていた。
何かに追い立てられるような気持ちがしていた。
強迫されているのに近い。
行かなければ、大事なものを失ってしまうような気がしていた。

歩き出した僕の手を、橋口は引きとめた。

「私はあなたとも家族になりたいの。
確かに真司さんとは一緒になりたいけれど……あなたは真司さんの息子なんだし……」

「父さんから聞いて知っているでしょう。僕は父さんの本当の息子じゃない」

「でも……」

「別に僕は、あなたと家族になるのが嫌だとは言っていませんよ。
 僕と父さんはこれまで巧くやってこれた。
 血の繋がりがなくても家族でいられると、僕は身を以って知っている。
 だから、あなたと巧くやる自信はありますよ」

これで話は済んだと、僕は再び歩き出した。
けれど、橋口は尚も僕の前に回りこんで、そして僕の顔を覗き込む。

「じゃあ、認めてくれるのね?私があなたの母親になるこ――」

「それだけは許さない!!」

僕は声を張り上げ、橋口の胸倉を掴んでいた。
自分でも、今彼女を見ている瞳が怒りに満ちているだろうことは分かる。
僕の視界にいる彼女は、驚愕と恐怖に顔を歪めていた。

「父さんの妻になることは構わない。
 僕と家族になりたいと思うのも構わない。
 けれど、僕に対して、母親として接することだけは許さない!
 母さんは……僕の母さんは深崎籐子ただひとりだ!!」

僕の怒声に目を瞑った彼女を、僕は半ば乱暴に突き放した。
脅える彼女に一瞥だけくれて、僕はその場を立ち去った。

腹が立つ。
どうして僕に対して母親と名乗れるのだろうか。
母さんがどうして死んでいったのか、僕がどんな経緯の果てに生まれたか――父さんと結婚したいと言っているくらいだ、それくらい承知のはずだろう。
それでもなお僕の母親になりたいというのなら、それは傲慢だとしか思えない。
必要としていないものを無理に押し付けようとすれば、そこには不幸しかもたらされないということを、彼女は知らないのだろうか。

僕は自転車を走らせた。
むしゃくしゃする気持ちを晴らすために、必死でペダルをこいだ。
けれどもそれ以上に、何かが僕を駆り立てていた。
急がなければ、あの場所へ。
でないと、僕は一生後悔してしまうような気がしていた。

これまでの人生の半分以上の間、勇人は僕の大切な存在であり、失いがたい存在だった。
高校が離れたといっても、それまでの関係が変わるということもなかった。
もちろんそれは、彼が特別だからということなのだけれど。

秋の空独特の澄み切った、清々しいまでの空気。
完全には乾ききっていなかった僕の髪は、自転車に乗る僕の横をすり抜ける風の温度を敏感に感じ取っていた。
高台の方を見上げると、蒼天に一筋、飛行機雲が綺麗に空を割っている。
空は、あの日の空と少しも変わらない。
9年前の、河原で勇人と初めて会ったあの日と。

けれども僕には、同じ空でもどこか違っているように見えていた。
それは僕の心の中の何かがそう囁いているからだった。
その正体がつかめないからこそ、その胸騒ぎはより一層不気味なものとして僕にのしかかっていた。

人気の少ない通りを全速力で駆けていく。
心臓破りの坂もノンストップで。
世界中の音が、僕の耳から遠ざかっていた。
ただ僕の前にあるのは、一刻も早くあの場所へ行かなければならないということだけ。
だから、正直僕はあの場所へ行くまでの記憶がなかった。
息をするのも忘れていたのではないかとさえ思える。
それほど僕は必死だった。

水を打ったように、その公園は静まり返っていた。
高台にあるうえ、住宅地からやや離れていることもあって、その公園は日が沈むよりもだいぶ早く人気がなくなる。
だからこそ、僕らはここへよくやって来ていたわけだけど。
今のこの時間は、まさにその人気のなくなる時間帯だった。
だから、その静けさはいつもと変わらないものだったのだろう。
けれど、明らかに違うことがあった。
それは、勇人の姿がなかったことだった。

別に約束をしていたというわけではないから、そこに彼の姿がなかったのは他人から見れば別段不思議なことではないのかもしれない。
けれど、僕は直感を信じている。
今日、彼はここにいたはずなのだ。
それなのに姿がない。
公園の入口に到着した時点で僕には分かっていた。

僕は自転車を投げ出して公園の中に入った。
あの川が見渡せるあの場所へ急いだ。

落下防止の柵の前、そこには木製のベンチがひとつ、忘れられたように置かれている。
僕らはよく、そこに座って話をしたりした。
他愛もない話だったり、自分にとって重大な話だったり。
そこに行けば彼がいるのは分かっていたし、そこで待っていれば彼がくるのが分かっていた。
それほど僕らは近かったんだ。

ベンチの上には、カバンがぽつんと取り残されていた。
今にも地面に落ちそうな、そんな微妙な位置に置かれている。
いや、本来なら落ちていただろうが、かろうじてそこに残っているような、そんな感じだ。
もちろん僕には、それがハヤトのカバンであることは分かっていた。
それを手に取り、あたりを見回してみるけれど、勇人の姿はどこにもなかった。
何か手がかりはないかと、彼のカバンの中を見る。
カバンの中には、財布と定期と携帯が、そろって入っていた。

近くの自販機に飲み物を買いに行っているのだとか、諸用を済ませているのだとか、そういった可能性は考えられなかった。
勇人は、事件に巻き込まれた可能性が――誰かに連れ去られた可能性が高い。

この時ほど自分の愚かさが憎かったことはない。
あの、橋口と話している時に心の中に生じたあの摩擦。
あれはおそらく、勇人に起きた身の危険を知らせるものだったのだろう。
もっと稽古を早く切り上げ、ここに来ていたら。
橋口に捕まることなく、すぐにここに来ることができていたなら。
そうすれば彼がいなくなることもなかったかもしれないのに。

次に僕の心を支配したのは罪悪感だった。
何かの事件に巻き込まれたとして、第一に考えられるのは誘拐だ。
けれど、誘拐だったとして、犯人はたまたま彼を狙ったというのだろうか。
違う、犯人は僕と彼を取り違えたに違いない。
僕達が、いや、僕がよくここに来ることを犯人は知っていて。
だからここに来た彼を攫っていったのではないか。
僕がターゲットだったというのなら十分にありえる。
僕を使って、父さんを揺することはいくらでもできる。
犯人がそう考えたって何の不思議はない。
世間は、僕を父さんの実の息子だと思っているから。

僕が早く着いていればいなくならなかったかもしれない、そんな思いはすぐに、僕のせいで彼がいなくなってしまったという罪悪感に切り替わっていた。
その方が、まだ自分を責めるのが楽だったからかもしれない。
彼が苦しんでいるかもしれない時に、「楽な」責め方を選んでいてはいけないとは思ったけれど。

耳を澄ませても、君の声が聞こえることはなかった。
どこにいるのか、感じ取ることもできない。
僕の心に襲い掛かってくるのは、君を失ったという喪失感だけだった。
この事実はどこまでも重かった。
僕の出生に関する事実を知らされたあの時よりも、僕は巨大な衝撃に打ちのめされていた。







それから僕は、もしかしたら彼は家にいるかもしれないという僅かな望みに縋り、彼の家に向かった。
けれど、彼がそこで僕を迎えてくれることはなかったし、いつまでも帰ってくることはなかった。
あまりにも大きなショックは、逆に僕を冷静にしていたみたいで、それからは事務的に小父さんに連絡したり、警察に連絡したりしていた。

勇人を溺愛していた小父さんはすぐに飛んで帰ってきた。
僕はカバンを見つけたときの経緯を話し、警察の事情聴取も受けた。

捜査は難航し、警察はすぐに公開捜査に踏み切った。
彼の名が、電波に乗って日本中に広がった。
けれど、僕には分かっていた。
メディアを通じて呼びかけたって、小父さんの、そして僕の声は君には届いていないということを。
どこかで自覚していたんだ。
君が、もうこの世界にはいないんだということを。

父さんと橋口と、僕の関係のことは一切頭から吹き飛んだ。
僕の生活は、君がいなくなったということだけに染められていった。
今さらながら、君の存在がこれほど大きかったのだと気付いた。



僕は心の中でずっと呼びかけていた。
いないと分かっていても、呼びかけずにいられなかった。
信じたかったんだ。
いつか必ず、君は僕の声に応えてくれるって。



そうでないと、僕は君のいない世界では生きていけなかった。



本編に入るまでが長すぎませんか? ハイ、その通りです。返す言葉もございません。

一応予定では、トウハヤはエンディング後にくっつく、だったんですが。
トウヤはすでにハヤトに堕ちて仕方がないっすね。
まぁ、ハヤトに堕ちて仕方がないトウヤがまたワタシのツボなのですけどね。