text : PAPUWA <theme from "Here">

[ Scare ]


 薄曇の空の下にいた。風は冷たくて、目の前に広がる世界はとても寂しいものだった。けれど、彼はそれほど苦にも思っていなくて、どちらかといえばそれで十分なのだと思っていた。こんな世界でも、自分にとっては幸せな世界なのだから。
 確かに自分を包む世界は、他人から見れば哀れがられる要素を含んでいるかもしれない。けれど、そのような境遇にいるのは、世の中に自分だけだということは決してなくて。自分の愛すべき存在、愛してくれる存在、自分は幸せだと思える要因はいたるところにあった。たとえ人から見れば哀れな境遇でも、その中で幸せに生きていくことは十分にできることだ。
 他愛もない日々は過ぎていく。どうってことのない日常は過ぎていく。決して単調なものばかりでなく、嬉しい出来事があった日もあれば、悲しい日もあった。その一つひとつが財産で、何にも替え難いものになっていて。そういうものを持っていられることもまた幸せなことだと思う。
 そう、自分は幸せなのだ。上を見ればキリがないかもしれないけれど、それでも自分は幸せなのだ。自分が幸せだということで、我が身のことのように喜んでくれる人がいる。それもまた幸せなことだと思うし、大切な人の幸せを願うことができる自分がいることも幸せなことだった。たとえ暗い空の下、冷たい風が吹き荒れる世界にいたとしても、自分は幸せなのだ。
 けれど。そうやって自分は幸せなのだと自覚するたびに、心のどこかが疼くのを感じていた。後ろめたい想い。自分は何か知っていなければならないことを知らないのではないか。自分の中の何かが訴えている。今の自分は、誰かの犠牲の上に成り立っているのだと。
 不安になり、灰色の世界をぐるりと見回す。けれど、誰もいなくて。より不安になる。ひとりであることに不安を感じているのではない。焦る気持ちの中に潜む、自分は責められていなければならないという気持ちが、目に見える誰かに責められていないということに不安を感じている。
 暗い世界を走る。自分が犠牲にした誰かの幸せに謝りたくて。償いをできるほど自分はできた人間でないから、せめてその努力はすると、心から謝罪したくて。
 走る。どこまでも、どこまでも。息は切れない、けれどどこまで行っても世界は変わらない。誰もいない、その存在は感じているのに。姿が見えない、すぐそこにいるのに。どこかで泣いているかもしれない誰か、その誰かのおかげで自分は笑っていられるのだと、そう思うととても苦しくて、怖かった。


               ◇


「あれ? ……キンちゃん?」
 肩に重量を感じて、グンマは眠りから覚めた。衾褥が掛けられている。誰が、と後ろを見回したところ、彼の従兄弟であるキンタローが研究室から出て行こうとしていた。
「起こしてしまったか。この前、オマエが考案した偵察ロボットの設計図があっただろう。頼まれていた精密機器部分のチェックをしておいた。そのファイルに綴じてあるから後で確認しておけ」
「わぁっ! さすがキンちゃん☆」
 先程まで自分が突っ伏していたところのすぐ側に、自分が渡した時よりもさらに分厚くなったファイルが置かれていた。見直すところがあったら教えてほしいと頼んだのだが、どうやらどう改善すればいいのかという細かいことまで指摘してくれたようだった。
「おかげですぐ試作品の製作にとりかかれそうだよ、ありがとー……ってキンちゃん、もう行っちゃうの?」
「用件は済んだからな。オマエも疲れているのならきちんと休め。疲れていては、できることもできないぞ」
「わかってるよー。休むから、さ。キンちゃんも休んでいきなよ。キンちゃんだって疲れてるんでしょ?お茶くらい飲んでいってもバチはあたんないよ」
 笑って、キンタローの手を引いた。グンマは、従兄弟であるキンタローが休む暇もないくらい働きづめだということを知っていた。キンタローが常にその側にいるシンタローが、さらに働きづめだから。世間では新生ガンマ団が爆誕したと囁かれているが、それはこの2人の手によるところが多い。ガンマ団内外の反発がこれほど少なかったのは、2人が影で表で、命を削るように己を酷使し続けた結果によるのだとグンマは知っていた。そのことを知っていたからこそ、自分だけが休んでいるなどできなくて。いや、2人ががんばっているのだからと思うだけで、自分の疲れも忘れていることができたのだ。
「…………シンタローが待っているのだがな」
 僅かな嘆息の後、キンタローは素直に研究室横のグンマ専用の休憩室へと身体の向きを変えた。それを確認して、グンマは紅茶と茶菓子の準備に取り掛かった。1度、もう1人の従兄弟であるシンタローに「オマエの部屋には甘ったるいモンしか置いてないのか」と呆れ顔で言われて、少しは甘くないものも揃えるようになっていて。キンタローはいくら甘いものを出しても顔を変えたりしないのだが、少し大人っぽく、けれど疲れがとれやすいようにほんのりと甘さと苦さが同居するビターチョコレートを用意した。
「あ〜! 休むって言ったのに、そんなの読んでちゃ休んでることにならないじゃないか」
 ポットとカップと、そしてビターチョコレートをはじめとするお茶請けを載せたトレイを持って休憩室へ入ると、キンタローはテーブルにいくつかの書類を広げ、その中のひとつを手に取り、目を通していた。
「オマエはお茶くらいと言ったからな。それまでは別に休んでいる必要はないだろう」
「そんなのヘリクツだよッ」
 頬をぷくーっと膨らませるグンマに、キンタローは顔を緩める。微笑み、とまではいかなくても、グンマは彼のこの表情がとても好きで。自分も思わずにこりと笑ってしまう。
「またすぐ遠征に行っちゃうんでしょ? ここに戻ってきた時くらい、もっとゆっくりしていけばいいのに」
 キンタローが書類をアタッシュケースにしまうのを横目に、カップに紅茶を注ぐ。こぽこぽという規則正しい音。眠りを誘うような、心地よい音。こんな音にさえ眠気を感じてしまうなんて、それほど自分は疲れているのだろうかとグンマは思う。
 でも今眠ったら、と先程見た夢のことを思い出す。眠るのが嫌なわけではない、あの夢がとてつもなく怖いわけでもない。ただ、久しぶりにあの夢を見たということに驚いているだけ。昔から幾度となく周期的に見ていた夢だったが、最近はぱったりと見なかったから。きっと――
「おい、こぼれるぞ」
「え? ぁあッ、っと! ……あー、ありがとキンちゃん。危ないあぶない」
「まったく。だから休んでいろと言っただろう」
「むー。そんな風に言わなくったっていいじゃないか。ちょっと考えごとしてただけだよッ」
 脹れて、キンタローの前にカップを差し出す。怒っているのは自分だが、何となく、キンタローの顔を見ることはできなかった。いや、その理由はわかっているのだから、何となく、ではないのだが。
「魘[うな]されて、いたぞ」
「え?」
 突然のことに、グンマは顔をあげた。キンタローはいつもの無表情の貌で、しかしどこか怒りのようなものを見せているようで。疲れているのに客をもてなすようなことをして――などということに怒っているのではないだろう。
 わからない、というようにグンマが呆けた貌をしていると、キンタローが目じりを指さした。自分のそこに触れてみると、涙の乾いた痕があった。
「怖い夢を見ていたのか」
「あ、あははッ。ちょっとね〜。笑っていいよ〜」
 心を読まれるだろうか、いやこれ以上の追及は避けたいところだ。無意識がそう判断したのだろうか、無理に誤魔化そうとはしなかった。笑い話で済ませれば、それでいい。確かに怖い夢だった、しかしそれはキンタローには言えない夢だから。
「夢を見て泣くのは、笑われるようなことなのか?」
「えっ?」
 子どもだな、グンマは――そうキンタローが言って。キンちゃんまで子ども扱いしてッ――こう言い返してこの話は終わりにするつもりだった。終わらせてくれない――そんなことでキンタローを憎らしく思ったりしないけれど。逃げてはいけないと、何かがそう仕向けているような、そんな感じが拭えない。
「俺は泣くぞ。夢を見たら」
 全身に響く、低い声。真っ直ぐに、見つめてくる、その、視線。身体を突き破って、心の奥に突き刺さって。塞き止めていたものを、崩す。
「そんな恥じたりするようなことではないだろう」
 違う。そうじゃない。
「……ゴメ……サイ……、キンちゃん……」
「謝るようなことでもないだろう?夢は、素直な自分と向き合えるところだからな」
「そうじゃないよッ! ゴメン、ごめんなさいキンちゃん……キンちゃんも、夢で、泣くんでしょう? 怖くて……」
「グンマ?」
「ずっと、ずっとひとりだったんでしょ? シンちゃんのこと、憎んでたんでしょ? そんな夢、見るんでしょ? それって、それって僕のせいだよね!?」
「おい、グンマ。何を言っているんだ。少し落ち着け」
「落ち着いてなんていられないよッ! 僕の、僕のせいなんだ……僕なんて、こんな……」
「グンマ!」
 頬に痛みが走るのと同時に聞こえた、目の前にいる従兄弟とはまた別の男の声。衝撃とこの声と、ふたつの驚きにグンマは動きを止めた。
「あ、れ……。シンちゃん、どうしてここにいるの?」
 数瞬の後、やっと気をとりなおしたグンマは、その声の主に訊ねた。声の主――シンタローは、軽く息を吐いた。
「その声でそれ以上喚くな。余計女の子に思われるぞ」
「廊下まで聞こえてた、ってこと?」
「まぁな。……ったく。キンタローは帰ってこねぇし、何かあったのかと来てみればグンマは泣き喚いてるし」
「ゴメン、シンちゃん……」
「誰が謝れっつったよ。それより――」
 何があった?そう訊かれると思い、身体を強張らせる。訊かれても、困る。キンタローにも言えないことだけれど、シンタローにも言えないことだから。
「俺には茶ァ出さないのか?」
「へ?」
 間の抜けたグンマの声は気にも留めず、シンタローはキンタローの横にどかっと深く腰掛ける。
「ほら、どうした。俺に出す茶はねェってのか?」
「う、ううん! すぐ用意するよ」
 我に返ったグンマは飛び上がり、急いで食器棚に向かう。シンタロー専用のカップを手に取り、テーブルに戻って紅茶を注ぐ。その間、シンタローは何も言わない。キンタローとも言葉を交わさない。その雰囲気が怖くて、おずおずとカップを差し出した。
「もっとマシな茶菓子はねェのか?どれもこれも甘ェモンばっかだな」
「…………シンちゃん」
「あ? ンだよ」
「キンちゃんも……訊かないの?」
「何をだ」
「その……何があったのか」
「そう言うってことは、訊いてほしいってことだな」
「ぅ……」
「別に俺もシンタローも無理に訊きだそうとは思わない」
「………………」
 2人の従兄弟は、本当にできた人たちだと思う。そしてその2人と並ぶことで、自分はなんて卑小な人間なんだと思う。自分の意思を尊重してくれるのは嬉しい、けれど、強要された方が救われたのかもしれない。
(そう思ってしまうところがまた、醜いんだよね……)
 何も言わず、ただグンマの言葉を待つ2人の従兄弟たち。とてもとても優しくて、逞しい2人。自分はそんな2人が大好きで、だからこそ、自分の安寧のために、2人に自分の中で蠢く痛みをぶつけてしまうなんてことはしたくない。
 けれど。
 ぼろぼろと涙は零れてきて。強要しない彼らの心遣い、けれど受け止める準備はできているぞという大きな器――それらに触れただけで、この2人なら自分の中で息を潜める恐怖を消し去ってくれるのではないかと思えてしまう。
 話していい?話して、僕だけ楽になっていい?自分が不幸であることに満足したいわけではないけれど、それでも自分より前に、この2人に幸せになって欲しいと思う。心からそう思っている。懺悔だとか、償いだとか、そういうつもりは微塵も無い。微塵も無い、つもりなのだけれど。
 それでも心のどこかでわかっていて、そうしなければならないのだと囁く声がする。今の自分の幸せは、彼ら2人の犠牲の上に成り立っているのだからと。
「なんでそう思うんだよ」
 カップを置いたシンタローは、これでもかというほど怒りのこもった目をグンマに向けた。びくつくグンマのためにキンタローはシンタローを宥めるが、それでもそのキンタローの目にも同様のものが表れていて。
「だって、そうじゃないか。僕は20年以上、のほほんと暮らしてこられた。何の不自由もなく」
「それがどうした。世界中のほとんどのヤツがそうだろう。後で振り返ってみれば、あぁあの時は幸せだったなって、そう思える人生を生きてきているんだ。何を気にする必要があるんだよ」
「確かに世界中の人たちはそうかもしれないけれど! でもその前に僕にとって問題なのは、僕の傍にいる君たちじゃないか!」
 世界は広い、けれど狭い。誰かがそう言っていたけれど、本当にそうだと思う。遠くで戦争が起こっていて、けれど自分に火の粉がかからないのなら、それは対岸の火事でしかなくて(確かにその戦地へ目の前の彼らは赴くのだけれど)。世界中の人たち全てが幸せになることなんてできなくて、それなら自分の周りにいる人たちにはせめて幸せでいて欲しいと思う。自分にとって、世界は自分と、自分のまわりにいる人たちとその環境で構成されていて。だから、その人たちが重要なのだ。言ってしまえば、世界の誰も関係ない。彼らが幸せかどうか、それだけなのだ。
「僕は24年間、のほほんと生きてこられた。それはキンちゃんのおかげでしょ?もし、高松やサービス叔父様たちが復讐を考えなかったら、キンちゃんは普通に生きてこられたんだ」
 子どもの頃からどこかで感じていた後ろめたさ。夢の中でその存在を知っていた、自分の幸せの裏で泣いている小さな子ども。あの島での出来事があって、その真相が明らかになった。本来、封じ込まれるべきは自分だった。入れ替えられたことで、自分の代わりにキンタローが24年間苦しんでいた。その間、自分は何も知らずに生きてきた。愛し愛されて、身近にいる彼には微塵も気付かずに。
 シンタローもシンタローで、今そのことで苦しんでいる。表には決して出そうとはしていないけれど。時折、キンタローに向けるやりきれない視線がそれだ。2人を大好きなグンマだから、そんな変化に気付くことができた。24年間、キンタローを蓋していた事実は、この強い男にも重く圧し掛かるものだろう。
「青い秘石に玩ばれた結果だとしても、僕は……僕は……」
 同じ事件に巻き込まれた者の中で、一番受ける傷が少なかった。みんなには幸せでいてほしいのに、自分だけが軽症で済んで。せめて2人の傷が癒えてほしいと思っても、自分ができることなどひとつもなくて。ただただそうなればいいのにと願うだけ。さらにこの2人の従兄弟は、ガンマ団と世界のためにと、日夜休むことなく働き続けていて。発明しか能のない自分は、こうして本部で2人の帰りを待つしかできないでいる。だから。
「僕は……2人に、申し訳なくって……」
「それ以上言うとぶっとばすぞ」
「ふぇ?」
 涙目で見上げると、呆れた顔でシンタローは紅茶を口に運んでいて。キンタローは肘を突き、顔の前で手を擦り合わせて瞑目し、ひとつ溜息をついた。
「もうその話は終わっただろう――と言いたいところだが。そうだな、オマエの中ではまだ終わっていないのだな」
「……キンちゃん?」
「あの島でオマエは言っただろう。俺たちは石コロのオモチャじゃない。それぞれ自分の人生を生きてきたんだ。誰かにその指針を定められたとしても、そのなかで、精一杯自分の意思で生きてきたんだ。それを悔いるのはおかしい」
「それに、俺はあの時言ったハズだぞ。後ろ振り返るより、これからのことを考えようってな。大切なのは過去じゃない、未来だろうが」
 そう言って、手を伸ばしてくる。反射的にグンマはびくりと身構えて、けれどその手はグンマの予想していたようには動かなくて。くしゃりと頭を撫でられた。
「オマエ、発明とかしてて、それだけ頭はいーけど。やっぱ、本当に伝えなきゃいけねぇことは、きちんと言葉にしなきゃいけねーみてぇだな」
 恐る恐る開けた目に映ったのは、シンタローの眩しい笑顔で。その隣には、キンタローがタンポポの綿毛のようにふわりとした笑みを浮かべていて。
「俺達はいつも一緒にいたが、オマエはひとりだったからな。思うこともたくさんあったのだろう。辛い思いをさせたな」
 優しい、コトバ。それだけで、乾いていた涙の道は再び濡れてしまう。
「キンちゃん……シンちゃん……っふ、ふえっ……」
 2人の手を取って、泣き崩れてしまった。普段からすぐに泣くと言われて、そしてそこが子どもっぽいと言われても。今回ばかりは全く気にならなかった。嬉しくて、嬉しくて。この2人が従兄弟で本当によかったと、そう思う。

 ぽんぽんと、頭と背中を叩く2つの温かいそれぞれの手。薄曇の空も、冷たい風も、寂しい景色も、全て浄化させてしまう温かさ。迫り来る恐怖も、どこかで泣いている見えない子どもも、現実はもちろん、夢の中にももう存在しない。



大好きです、従兄弟ズ
微妙に、ですが「09. リトル・ガール・トリートメント」に続いてたり